ドッペルギャンガーの歴史は江戸後期にさかのぼる。大阪は堺の商人に生まれた巌家藤兵衛(げんやとうべえ)がルーツである。藤兵衛は、それまで巌家が生業としてきた米商人の一切を弟に譲り、安政3年、新たに大八車の製造・販売に進出。この屋号を藤兵衛楼(とうべえろう)とした。
このとき、いかなる転機が藤兵衛にあったかは文献に残ってはいないが、黒船来航や近代化の兆候から流通のさらなる発展を見越してのことと推測される。
しかし大八車は世にあふれており、凡庸な物では商売として太刀打ちできない。そこで藤兵衛は、安価でありながらどこにもない大八車を打ち出していく。巌家に伝わる文献によれば、最初に発売した大八車は「藤兵衛楼一式」という名前で、黒い車体に朱色のポイントカラーが特徴だったとされている。
単なる大八車から「藤兵衛楼・雁鍬」へ
この藤兵衛楼一式は堺の商人にはあまり受けなかったものの、新しい物好きな江戸っ子たちの間で大変もてはやされた。そして当時の流行り言葉で、誰もやらないようなことを指す「雁が鍬を持つがごとし(雁鍬=がんぐわ)」にかけて「藤兵衛楼の雁鍬」と呼ばれた。
江戸での人気は雁鍬の名と共に各地へ広がりを見せると共に、大八車自体にデコレーションを施す者、車輪に先進的な絵図を描く者、あるいはさらに派手な色にする者も現れた。この大八車を改造するムーブメントは、いつしか定期集会へと発展する。
改造、そして会合へのムーブメント
藤兵衛楼青空雁鍬会合では、それぞれが持ち寄った車輪などのパーツや餅がふるまわれ、改造談義に花を咲かせたという。また、当初は「藤兵衛楼青空雁鍬会合」と呼称されていたこの会合は第3回あたりで誰かが天狗踊りを披露し、これが大受けしたため4回目以降は「藤兵衛楼青空舞天狗会合」とされている。青空舞天狗会合は、確認できる限り明治後期まで続けられたという。
大八車の世界に一大ムーブメントとはいかないまでも、大きな風穴を開けた藤兵衛楼大八車だったが、1900年以降は荷運びの主役を自動車に奪われて大八車自体が徐々に姿を消すこととなった。この頃、時代の先を見通す藤兵衛はすでに大八車から手を引いていたとみられるが、その後の消息は文献に残っていない。
時代は過ぎて2000年。巌家の蔵から雁鍬に関する文献を、藤兵衛の末裔である慈英がふとしたきっかけから紐解くこととなる。この文献から現代の大八車たる自転車販売を決意、ブランド名をドッペルギャンガーとしたことは諸兄もご存じのとおりである。
藤兵衛楼と言ったな、あれはウソだ
はい、これまでの説明は真っ赤な嘘です。誰だよ藤兵衛! 知らねえよ!(最低)
というわけで、ドッペルギャンガーはビーズ株式会社が企画・販売する自転車ブランドですよ。
製造は主に中国で、お高い価格帯のモデルは台湾で作ってたりします。塗装とステッカーのデザイン、パーツ選定などはビーズがやってるという感じです。
価格は2万円前後が多く、軽量なアルミフレームをその値段で買えるのはいいですよね。そのぶん精度はメイドインチャイナだから推して知るべしという事例もありますが、とりあえず街乗りでちんたら漕ぐには問題ないんじゃないでしょうか。
ドッペルギャンガーのラインアップを見るならAmazonのドッペルギャンガーストアでどうぞ。
まともなクロスバイクだと5万円から、初級向けロードバイクは10万円からという価格を考えると、2万円から買えるドッペルはお手頃感が高いんですけど、まあ、それだけどこかでコストカットをしているということでもあるんですよね。
で、ドッペル愛好家(ドッペラー)はパーツを交換して乗る遊びを見いだしてしまったようで、2chでの情報交換が盛んに行われていました。2chスレッドでの蓄積された情報はドッペルギャンガー@2ch WIKI(非公式)にまとめられていますのでご参照いただけると君もドッペラーになれるような気がしないでもありません(曖昧)。やらないか。
この記事へコメントする